(この文章は,丸山宏先生のCNET Japan ブログをご本人の許可を得て転載しております。 http://japan.cnet.com/blog/maruyama/2012/02/22/entry_30022153/)


 

シンポジウムを終えて

 

 

統計数理研究所 丸山 宏

 

 先週2月15日に、情報・システム研究機構のシンポジウム「システムズ・レジリエンス - 『想定外』を科学する」が開催されました。思ったよりも反響は大きく、大学や企業の研究者など268名が会場に参加されましたし、Ustreamの視聴者数は延べ1,685名に達しました。Twitterのハッシュタグ#roissympoでも多くの方がご意見を下さいました。


レジリエンスというテーマはまさに領域横断的で、「システム」に関する様々な側面を研究する私たち情報・システム研究機構にふさわしいトピックだったのではないかと思います。多くの方に「想定外に面白いシンポジウムだった」というコメントをいただきました(もちろん、厳しいコメントもいただきましたけれども…)。


シンポジウム全体の構成は、TEDのフォーマットを意識したもので、日立製作所の矢野さんによる招待講演以外は、1件20分という短い講演にさせていただきました。それぞれの講演者と、内容について事前に打ち合わせをさせていただいて、全体として飽きさせない流れを作ったつもりです。


また、パネルディスカッションも非常にエキサイティングで、示唆に富んだものでした。レジリエントなシステムに関する様々な知見が得られたと思います。その中で、ここでは3点ご紹介したいと思います。

アジャイルな社会


レジリエントな社会とは、環境の急激な変化に対しても追従できる社会と言えましょう。でも、どのくらい「急激」なのでしょうか。ゆっくりと環境が変われば、それなりに対応する時間も取れるはずです。例えば日本が少子高齢化になることは今後何十年にもわたって比較的よくわかっていますから、私達はそれに対して十分な準備ができるはずです。逆に、昨年の震災のようなものは、急激な変化といえるでしょう。その間のもの、例えば最初の兆候があってから数ヶ月で本格的な危機が訪れるものとしては、パンデミックのようなものがありうるでしょう。


逆に、対応する方のスピードを上げて行ったらどうなるでしょうか? 組織の意思決定、実行、結果評価のいわゆるPDCAサイクルが、例えば1年単位の予算ではなく、1ヶ月単位、あるいは1日単位で行われたらどうなるでしょうか。日立の矢野さんが主張されていたのは、このようなPDCAサイクルを極限まで短くすれば、それが最もレジリエントな組織になりうる、ということでした。


この議論を聞いていて、Twitterで「これはアジャイルですね」とつぶやいた方がいらっしゃいます。ソフトウェア工学で最近注目されている開発手法にアジャイル開発という考え方があります。ソフトウェアの開発においては、仕様の変更や開発の遅れなど何があるかわからない、だから最初に仕様を厳格に決める、伝統的なウォーターフォール型の開発をあきらめて、そのかわり1ヶ月とか1日のサイクルで継続的に作業を見なおしていく、という考え方です。


環境の変化に敏感に反応して軌道修正していく、それはまさにアジャイルであり、レジリエントであるのではないかと思いました。


人間関係のトポロジ


想定外の事象に対して人間がどのように対応するか、ということは、情報研の岡田準教授の講演にも出てきましたし、パネルディスカッションでも繰り返し語られたことです。「想定外」に対して、人々は創造力を駆使して柔軟に対応しなければならない。そのような組織はどういう組織なのでしょうか?


これも矢野さんの知見ですが、組織内の人間のコミュニケーションをグラフに表現したとき、三角形が現れるのが創造的な組織なのだそうです。つまり、上司と部下の間のコミュニケーションだけでは、グラフは木構造になってしまう。三角形というのは、上にも横にもつながるコミュニケーション関係ができている、ということです。 確かにこれもそんな気がします。レジリエントなシステムを運用している組織は、組織としてもレジリエントなのでしょう。


個人と社会


パネルディスカッションの最後に出た質問は重いものでした。「レジリエンスを考えるということは、社会として継続性があれば一部の個人は犠牲になっても良いということか。それは許されないのではないか。」


レジリエンスとは、どんなに頑健にしてもいずれはシステムが壊れることを前提に、システムの保護と回復のバランスを模索する考え方と言えます。もし、「システムが壊れる」ことの中に、人の命が失われることを含むのだとしたら、それを仮定することよりも、そもそも人の命が失われないように全力を尽くすべきではないか、というのは確かに一定の説得力を持つ議論といえましょう。しかし、3.11の教訓が私たちに与えたものは、それでもやはり壊れるものは壊れるのだ、ということではないでしょうか? 原子力発電は「壊れない」ことに全力を挙げて、その結果壊れた時の対策がおろそかになってしまっていたのではないでしょうか?


これは私たちの社会の価値観の問題であり、生きざまの問題です。サイエンスが客観的な法則に基づいて決める問題ではありません。しかし、だからと言って私たち科学者が「自分たちの問題ではない」と突き放して考えることは許されません。私たち一人一人が、「終わりのない対話」を繰り返していかなければならないのでしょう。


(「終わりのない対話」は、瀬名秀明著「インフルエンザ21世紀」にある言葉です。 私のMixi日記 もご覧ください)